みなさんこんにちは、そういちです。
前回の記事の続きです。
前回は講演会でのプレゼンをベースに、とりあえず行動してみることの大切さについて書きました。今回の記事では、プレゼンの後半、ワクワクに従って刹那的に短絡的に行動するのではなくてしっかり努力することの大切さに関しての記事です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
前回の記事でワクワクに従うことのすすめについて書きましたが、往々にして内側からのワクワクを追うことには苦痛も伴います。共感を得られなかったり、仲間が見つからない時もあります。そんな時、しっかりとした定義のもと努力をすることが大切だと考えています。
突然ですが、努力とはなんでしょうか?
もっというなら、「努力」と「労働」のちがいとはなんでしょうか。
またまた引用になってしまいますが、ノルウェイの森の一説にこんな分があります。
本の登場人物であり僕の憧れでもある永沢さんの一言です。
「だからね、ときどき俺は世間を見て本当にうんざりするんだ。どうしてこいつらは努力というものをしないんだろう、努力もせずに不平ばかり言うんだろうってね」
僕はあきれて永沢さんの顔を眺めた。「僕の目から見れば世の中の人々はずいぶんあくせくと身を粉にして働いているような印象を受けるんですが、僕の見方は間違っているんでしょうか?」
「あれは努力じゃなくてただの労働だ」と永沢さんは簡単に言った。「俺の言う努力というのはそういうのじゃない。努力というのはもっと主体的に目的的になされるもののことだ」
ーノルウェイの森/村上春樹
僕が、この世界で頑張る人たちは皆努力をしているのではないか、といったことについて永沢さんは「あれは努力ではなく労働である」と厳しく断言します。
僕はこの文を、こう解釈しました。
人から決められた、自分の外の基準で生きていくことは楽かもしれない。システムに責任を預けることができるし、責任を十分に追わなくてもいいから。しかしながらそれはある意味他者の基準で動いているという意味で労働である。
本当の意味での努力というのは、一旦自分の中で物事を咀嚼し、自分のなかの目的に向かって主体的に、自主的に受かっていくものである、と解釈しました。
つまり、人が決めたゴールや目標ではなくワクワクに向かって主体的に行動することが大切である、と思っています。
これを、僕はワガママ思考とも思っています。
自分の中で主体的に世界を解釈し、闇雲に行動するのではなくある程度目的や目標を定め、そこに向かって主体的に努力していくことが大事だと思っています。
以上僕が考える努力の定義とワガママ思考のすすめでした。
少しでも進路に迷うみなさんのサポートになれば嬉しいです!
これからもよろしくお願いします。

コメント